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【西条昇の喜劇コレクション】曽我廼家満十郎一座のビラ

手元にある、松岬劇場での曽我廼家満十郎一座の公演のビラ。
〈いろいろな曽我廼家〉シリーズの一つである。
〈お馴染の人気男〉〈新舊喜劇の親玉〉とある。
僕はこのビラの他に満十郎一座の挨拶用の葉書も所蔵している。
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【西条昇の喜劇コレクション】曽我廼家五八郎劇のビラ

手元にある、小矢部座での喜劇王 曽我廼家五八郎劇の公演のビラ。
「ノンキナトウサン」などを当たり狂言として〈浅草の喜劇王〉と言われた曽我廼家五九郎ではなく、戦後に初期の松竹新喜劇で活躍後にフリーの喜劇俳優となった曽我廼家五郎八でもなく、曽我廼家五八郎である。
五八郎は、喜劇史では名前を見ることはないが、こうした地方興行のビラがいくつか残っている。
喜劇俳優=曽我廼家だった時代のことである。
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【西条昇の浅草喜劇コレクション】曽我廼家勝蝶一座のビラ

手元にある、松岬劇場での曽我廼家勝蝶一座の公演のビラ。
〈東京浅草笑ひの王國者〉とあるが、浅草喜劇史で曽我廼家五九郎一座にも曽我廼家五一郎一座にも勝蝶の名前を見つけることは難しい。
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浅草ロック座名誉会長の斎藤智恵子ママのご冥福をお祈り致します

浅草ロック座の「ママ」こと斎藤智恵子名誉会長が90歳で亡くなられ、浅草・東本願寺で行われたお通夜に参列してきた。
お通夜には、斎藤ママと親交のあったビートたけしさんもいらっしゃっていた。
斎藤ママは日舞の師匠から、東八千代という芸名で浅草・奥山劇場でストリッパーに転じ、昭和46年からストリップ界の名門「浅草ロック座」を経営(同年から東洋興業との歩興行、翌47年に東興業へ正式譲渡)。
ロック座は昭和22年8月に建てられており、今年の8月で丁度、開場70周年に。ロック座には永井荷風が連日のように通ってロック座のための舞台脚本を書き下ろして自ら飛び入り出演し、ストリップと共に上演された軽演劇や幕間コントからは伴淳三郎、佐山俊二、渥美清、長門勇、東八郎、ビートきよしら多くのコメディアンを輩出。
斎藤ママがロック座を入手した当時は、ストリップが最も「風俗化」していた頃だったが、踊り子たちにしっかりと教え込んだ日舞を中心にした「芸」を見せる正統派ストリップにこだわり続け、パリから招聘したダンサーたちのレヴュー・ショーを企画するなどして、ロック座を軌道に乗せられた。
昭和59年にはパリのクレイジーホースを手本に莫大なお金をかけて浅草ロック座を建て替え、豪華な音響・照明設備と舞台機構を導入して、それまでのストリップ劇場のイメージを一新。
息子さんの恒久さんと共に、ストリップ界のアイドル時代を牽引された。
ストリップ誕生70周年にあたる今年、全国の劇場の数は一時期に比べて激減しながらも何とか存続しているのは、斎藤ママの存在があったからと言えるだろう。まさに「ストリップ中興の祖」であり、「ストリップの大恩人」と言える。
また、斎藤ママはストリップ以外でも、若山富三郎、勝新太郎の兄弟をバックアップし、北野武監督の映画「座頭市」を企画・プロデュースし、大衆演劇の早乙女太一を育てるなど、大衆芸能史において多大なる貢献をされた。
平成13~19年まで経営されていた大衆演劇の浅草・大勝館の閉館後も、旧・十二階(凌雲閣)跡の一画に「大勝館」という食事処を経営され、自らお店にいらっしゃった。僕は定期的に通っていたが、晩年は車椅子でいらしているのに、自ら立っておつまみを分けて下さり、いつも帰り際に握手をして下さった。
スポニチの記事では、船橋の劇場の経営に関わってらした頃、地元の暴力団から金銭を要求されて断ったことで寝込みを襲われ、肩に刀傷が残ったとのこと。
昭和48年に公開されたにっかつロマンポルノ「濡れた欲情 特出し21人」(神代辰巳監督)では東八千代として出演し、刀で斬りつけられる場面を自ら再現されていたものだ。
謹んでご冥福をお祈り致します。
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